伊達政宗の幼少時代
前回瑞巌寺創建の途中で、「光源氏」のルーツに逸れてしまいました。
我が郷土の殿、伊達政宗(幼名梵天丸)の誕生が1567年戦国時代の最終期でだった。
政宗は異例の早婚だった。1579年13歳で「愛姫(11歳)」と結婚。
これは政宗5歳の頃天然痘を患い右目の視力を失い失明、武家の長男が片目が不自由では伊達家の将来を不安視して、実母の「義姫」や家臣が次男の「小次郎」を当主に目論見溺愛する。
政宗6歳の時、資福寺の住職虎哉宗乙に師事し 学問や仏教の教えを習う。また9歳になって、家臣の片倉小十郎が傳役(養育係)となり武士としての生き方や世情を教わる。
これらは父輝宗が、家中が後継者選びに次男の小次郎に偏ることへの、後継者の立場を明確に示した意思表示で、15歳で相馬義胤の戦いに初陣として参戦させた。
1584年(天正12年)18歳で17代目伊達家の当主になる。
実母との確執
政宗の居城は,度々変わる。
自分の判断で米沢城から会津を攻めて、黒川城に移ったが秀吉から小田原征伐を要請された。ここで悲劇が起きた。
一説には
実母の「義姫」の企みで毒を盛られたが、箸をつける直前に不審を感じた政宗が「お毒見役」に毒見をさせて難を逃れたという話がある。
この話しも、真ことしやかに伝わっているが至近の史実の検証では
(伊達政宗研究家・元仙台市博物館館長 佐藤憲一氏の説)
「Web歴史街道」より東京都あきる野市の現存する大悲願寺という寺に、注目すべき記録が残されている。寺の15代目住職の秀雄が、政宗の弟だというのである。
大悲願寺には、元和8年(1622)8月21日、当時の住職である13代目・海誉上人にあてた、政宗の手紙が伝わっている。
内容は、大悲願寺を訪れた政宗が庭に咲いた白萩の美しさに心奪われ、江戸に帰ってから株分けを所望したものである。
この手紙の包み紙の内側には、「実は大悲願寺の15代目住職の秀雄は、伊達輝宗の末子で、伊達政宗の弟である」と記されている。
いずれにせよ「弟小次郎」の死が、政宗の仕業と思い込んでいる母「義姫」が、悪鬼の様な妬みで終生狙われたのが、敵ではなく母親だという穏やかでない話が伝わっている
諸説あって、イズレが正しいかは定かではない。
江戸時代の国内統治の軋み
戦国時代の大名は戦争で勝てば、攻め取った敵国を領地に組み入れ大きくなってきた。
近世、豊臣政権や江戸幕府になって、統一権力の証として処分権・統制権の行使として大名の領土であっても、所有権は天下人、征夷大将軍にあるという観念で「転封」「国替え」が頻繁に行われた様だ。
ただし「恩賞」としての加増を伴う「転封」も多くあったと云われる。一概に処分・統制とは言い切れない面も在った様だ。
現代でも、スパイや密告制度など敵対する国や企業に仕掛けて、情報取得分析して対策を立てるが、先人にも敵国に忍んで永年居住しながら情報を取得、主国に便宜を図る。
一つの集落で忍者の修練で育ち、諸国に派遣されその情報集によって企てが漏れ、大名家が謀叛の疑惑で危機に瀕したこともあった様だ。
政宗も一国一城の主だが、中央政権ににらまれ(特に秀吉)謀叛を疑われ転封寸前の沙汰もあったが、自身や忠臣の命がけの弁明で事無きを得たことも、数多あったようだ。
その危機は数多く記録されている。
戦国時代から安土桃山時代を生き抜いてきた政宗は、山形の米沢と宮城の大崎・仙台・福島の会津と、陸奥から遠く離れることが無かったのが、当時の領民としては救われた部分も多いだろう。
1601年(慶長6年)関ヶ原の戦いが終了し家康の許可を得て岩出山城から仙台に移り、
瑞巌寺の造営は、1604年(慶長9年)政宗自ら縄張りを行って始まったと言われ、まる4年の歳月をかけ1609年に完成。
政宗は、造営の用材にも拘り紀州和歌山の熊野山中から伐りだし、海上を筏を組んで運んだと言い伝えられている。
当時の塩竈とは今の塩竈松島一帯を指していた
塩竈神社の創建の年代は明らかでなく、平安時代初期、嵯峨天皇の時代に「弘仁式」に「鹽竈神を祭る料壱万束」と記載され、厚い祭祀料を授かって居た。
奈良時代陸奥一帯の国府と鎮守府を兼ねた多賀城が、塩竈神社の西南5kmの小高い丘(現在の多賀城市)に設けられ、その精神的支えと知遇を得ていた様だ。
特に江戸時代になって伊達家の尊崇が高く、政宗以降歴代の藩主が大神主として奉仕、江戸時代の塩竃神社には宮司家が存在せず、実質の祭祀の執り行いは禰宜の家がやった
伊達綱村
万治3年(1660)伊達騒動があり、第3代藩主伊達綱宗の遊興放蕩三昧が激しく、親戚筋の一関の叔父が諫めても止まず、挙句の果てに嫡子亀千代丸の毒殺未遂騒ぎが、謡曲や芝居狂言に採りあげられたのが有名な話だ。
親戚の城持ちが、連名で幕府に「綱宗」の強制隠居と、「綱村ー幼名亀千代丸」の家督相続を願い出た。綱村はわずか2歳で伊達家を継ぎ第4代当主になる。
綱村、長じて17歳で仙台の地に戻り、自分の命と伊達家が続いたのは神仏の加護によるものと一層信心を厚くし、その証として大規模な造営に着手したと言う。
折しも幕府から日光東照宮の改修を命ぜられた綱村は、自分が現地で指揮しその改修が済んだ職人を塩竈に呼び寄せ社殿以下の造営の仕事に就かせた。
その為塩竃神社の社屋は東照宮に良く似ていると言われている所以だ。
呼称は、別宮ですが主祭神が祭られている様です。
本殿は素木造り檜皮葺きで、拝殿は朱塗銅板葺入母屋造と好対照である。
因みに塩竃神社はこの造営後に伊勢神宮と同じく二十年毎に式年遷宮が定められ、最新は平成3年(2011年)に第18回式年遷宮が行われそうです。