町絵図・村絵図
師走で気忙しくなった月初め同期会で語り合った尾形氏から、ずっしり重いレターパックが配送された。
何だろう?と恐々開けて驚いた、尾形氏が公私ともに関わってきた地域の歴史研修で、収集していた資料の一部で有る事を承知していた。
同期会の2次会で、最近実家の近くで埋蔵物が発掘されたことが話題になり
「自分たちの実家の付近は、どうだったのだろうなァ~」と漏らしたのを聞いていたらし。
生まれ故郷付近の古い「村絵図」などが入っている
一冊目ー「町絵図・村絵図の世界」発行編集元:東北歴史博物館(A-4判)でした。
昔、書かれた「絵図」のコピーが何枚も掲載され、興味深い一冊です。
郷土の文化遺産
2冊目ー「みやぎの文化遺産」発行編集元:東北歴史博物館(A-4判)です。
県内の出土品や建築物の紹介や、刀剣・信仰の神楽面・能楽面・甲冑・遺構の画像など多種多様な、遺産に類する纏め本だ。
3冊目は「塩竈・松島ーその景観と信仰」
編集・発行
瑞巌寺ー〒981-0213宮城県宮城郡松島町松島字町内91
志波彦神社・鹽竈神社ー〒985-8510 宮城県塩竈市一森山1-1
東北歴史博物館ー〒985-0862 宮城県多賀城市高崎1丁目22-1
この地域は伊達家の所領地に見られますが、いにしえの古書などを検証すると塩竃・松島の景勝は、遠く奈良・平安の時代から歌枕に詠み込まれる存在だったようです。
少し寄り道をします!
「塩竃・松島-その景観と信仰」にも記載されていますが、左大臣ー源融(ミナモトノトオル)が別名「河原の左大臣」と言われた逸話が有ります。
西暦872年第56代清和天皇―左大臣にその後内争で降格、しかし57代陽成天皇・59代宇多天皇に仕える。
以下、「Wkipdeia」より!
源融(ミナモトノトオル)は、紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補といわれる。
40代前半に、「陸奥出羽按察使」に任ぜられた縁なのか、京の六条大路に邸宅「六条河原院」を建造した。
其の庭園の作りが、陸奥国塩竈の風景を模して作り、尼崎から毎月30石の海水を運んで塩焼きを楽しんだという。
南は六条大路、北は六条坊門小路、東は東京極大路、西は萬里小路に囲まれた4町(一説には8町)の広大な敷地だった。
『源氏物語』の注釈書『河海抄』には、光源氏の邸宅「六条院」のモデルの一つが河原院だとある。また夕顔と一夜を明かした某院も河原院がモデルだという。ーここまでWikpedia-
現状の塩竃松島の沿岸線とは異なり海も近く、家屋も無くて見通しは良かったでしょうが、ご自分が現認したのか定かでないですが、塩竃が京の貴族で歌人のお気に入りの景勝地だとは、初めて知りました。
百人一首に「河原左大臣」の名で、「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに」が選歌されています。
源融は、第52代嵯峨天皇の皇子23人の15番目で、光源氏の実在のモデルと言う件(クダリ)も意味津々出すね!!
年末の慌ただしい時節に、こんな小難しいテーマに取り組んだのは、最近刺激が無くて「チコちゃんから、何でボーっとシテンノー!!」と怒られそうで、全く的外れでは無いことに、皆さんも正月にゲームだけじゃなく「百人一首」にchallengeしてください。